おかざき義典後援会事務所開き挨拶(全文)
本日はおかざき義典後援会 事務所開きに多くの方々にご来場いただいたことに、心からお礼申し上げます。
まず、私がどうして今ここにいるのかお話したいと思います。
私は東日本大震災後にここに来ました。震災後、岩手や宮城でボランティアに行っているうちに、復旧・復興に携わる仕事に人生を捧げたいと思うようになりました。石巻では漁師の跡継ぎになれと、大船渡では環境未来都市構想の方々があなたの給料は私たちの給料の中から出すから一緒に働こうという大変ありがたいお話もいただきました。
ボランティアをしていたときよくニュースでやっていたのが、「復旧・復興の遅れは行政のせい」というような内容のもの。ご覧になった方や、ここで実際そう感じた方もいらっしゃると思います。
それが本当に行政の責任なのか。そうだとすればどうしたら解決できるのだろうかと考え、日本政策学校という政治の学校に行きました。
その最初の講師としていらっしゃったのが、桜井勝延南相馬市長でした。
そこでの話は衝撃的でした。
震災に関することを仕事にしたいと思っているのであれば一番大変だと思うところに行くべきなのではないか。そう思い南相馬に行こうと決めました。
この当時思っていたのは中でも自身も被災しているにも関わらず、市民からは苦情が集中する市役所の職員は辛い思いをしているのではないかと思い、試験を受けて市の職員として働き始めました。
週末は鹿島社共のボランティアに参加したり、沿岸部を一人で見に行ったりしていたのですが、自分ひとりではできることというのはとても小さいものだと落ち込みました。
ですが、同じような思いの仲間にも出会い、ひとりではできないことでも仲間がいれば大きなことでも達成することができると感じました。
市役所の職員としては、文化スポーツ課のスポーツを担当し、総務課では市民活動支援を担当しました。
スポーツ推進では、体育協会、レクリエーション協会、スポーツ少年団、スポーツ推進委員などが、市民活動支援係では多くの市民団体やNPOなどが地域を支えていることを教えていただきました。
市役所で働いていると庁舎内で議会が放送されます。
よく覚えているのですが、2012年9月の議会で震災から1年半経つにも関わらず、「あのときどうして安定ヨウ素を配らなかったのか?」という質問。
責任追及はわかりますが、震災から1年半経って聞く質問なのだろうか。疑問に思いました。それ以外も行政批判ばかりで、このまちをどうしたいのかというものが感じられませんでした。そしてそれは3年半以上経った今も私の感想は変わりません。
今度の市議会議員選挙は、震災後初めて行われます。地縁血縁やしがらみに南相馬の未来を任せてはいけないと思い、こうしてここに立つことを決意しました。
震災のような出来事で変えられなければいつ変えるのでしょうか?
私がやろうとしていることは、本日お配りするリーフレットに記載しております。
まず防災について、これは消防団としておととしの防災訓練に参加した際、消防団は一部がホースの延長と放水をしたのみで、他はただただ待っているだけでした。参加者も少なくこれが震災後初めて行われた防災訓練なのかと愕然としました。震災からの教訓を生かし、未来に起こる災害に対しての備えを次世代に渡さなければいけないのではないかと思っております。
続いて農作物の地産地消についてですが、皆さんの食卓に届くまでの間、何回検査されているか知っていますか?7回です。
それを学校給食で出さない。もちろん何でもかんでもというわけではなく、きちんと検査したものについては食べましょうということです。風評被害を市民自らがまき散らしている結果となっています。南相馬市の基幹産業であった農業はこのままでは衰退の一途を辿るばかりです。
次の待機児童については、そのままです。南相馬の労働人口が減っていることはご存じだと思いますが、それを補完するのは働きたいと思っている女性です。
女性が働けるまちにしないで子どもと女性は戻ってくるでしょうか?
次に書かせていただいた議会基本条例は、簡単に言えば、議員が真面目にやらなければならないように条例で縛ってしまいましょうというものです。市議ひとりの力などたかが知れています。
これを退けるようでは、本気でやる気がないと判断せざるを得ません。
最後に書いたことは、私が経験したことでもありますが、私は南相馬に来る際に、正職員の試験を受けてみようと思いましたが、年齢制限で引っかかりました。震災で人が足りないと言っているのにも関わらずです。
年齢制限をかけているのは条例です。つまり市の裁量なのです。
つまり、私が言いたいことは、今こそ市議会議員が本来果たすべき役割を果たし、市民の皆さんと共に本気でこのまちをつくっていかなければならないということです。
震災から今日で1318日目となります。あの出来事は皆さんの人生を大きく変えたことでしょう。私もその一人であの日から人生が変わりました。
私には私にしかできない役割があり、それを人生をかけて果たすために今ここにこうして立っています。
私達は足元、つまり、自分のアイデンティティーを忘れてしまうことがあります。
アイデンティティーとは自分が何者であって何をなすべきか、ということです。
なぜ、足元を忘れてしまうのでしょうか?
祖父母が苦労して私の父母を育て、父母もまた苦労して私を育てました。
そうして私は現在ここにいます。
「私は誰なのか?」
「私はどこから来たのか?」
「どのようにここへ来たのか?」
「ここからどこへ行くのか?」
「どのようにそこへ行くのか?」
「そこで何に取り組むのか?」
私達はこういった人生における基本的な事柄をたびたび忘れてしまうのです。
地域やムラがだんだんと街になって、関係性が希薄になり、自分たちの足元を見直すことを軽んじるようになりました。
ですが、震災がきっかけとなり自分が何者で、何をなすべきか考えた時間はとても深く長いのではないでしょうか。
自分の中に自分の声があります。
その自分の声をよければ私に聞かせてください。
ここに生まれ育った皆さんの望まない南相馬市に何の意味もありません。
自分のため、奥さんのため、自分の子どものため、孫のため、まだ見ぬ次世代のためのことを今なさなければならないのです。
では、何から始めたらいいのでしょうか?
私は「自分のできることから始めてください。」と申し上げたいと思います。
「おはようございますと、声をかけられたことがありますか?近所の子どもたちに毎日挨拶していますか?」
「では、明日から毎朝、子どもたちに挨拶しましょう。」
目の前の人はあなたの鏡です。
私は20年後、30年後の南相馬市を皆さんと同じようにとても心配しています。
20年、30年経ってこういうまちにしていきたいと具体的にお考えになってください。
今、自分たちにできることは、子どもたちに挨拶をすることかもしれません。
最初は周りの人は、このおじさんどうしちゃったのかなと疑問に思うかもしれません。しかし、奥さんとスーパーに行ったときに、知らない家の子どもが、「おじさん、こんにちは。」と声をかけてくれるかもしれません。
その子のお母さんが「どうしてあのおじさんを知っているの?」と子どもに尋ねたとき、「あのおじさんは毎朝、おはようと声をかけてくれるんだよ。」と答えることになるでしょう。
ですから、相手が、おはようと答えてくれるかを心配する前に、20年、30年後にこんなまちに住みたいものだという理想を持って、現在において、その実現のための努力に取り組むことこそが、今大切なのではないでしょうか。
自分が何者で何をすべきなのか。そのために現在何ができるのか。
私はより良い南相馬市を実現するための闘いを、この場所から始めます。
それが自分にできることだと信じて、努力しなければならないと思うからです。
現職に比べ知名度は圧倒的に不足しており、その差を埋めるために残された日数は余りにも短いと言わざるを得ません。
私一人の力では到底不可能です。
ここにおいでの皆様方には、ご来場いただいたことを深く感謝申し上げますとともに、この困難な挑戦を最後の勝利に導いてくださるためにお力添えいただくよう心からお願い申し上げまして、挨拶といたします。
どうか、よろしくお願い申し上げます。
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